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エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵) : ミニ英和和英辞書
エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)[はくしゃく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 
伯爵 : [はくしゃく]
 【名詞】 1. count 2. earl 

エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵) : ウィキペディア日本語版
エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)[はくしゃく]

第8代スペンサー伯爵エドワード・ジョン・スペンサー(, 、1924年1月24日 - 1992年3月29日)は、イギリスの貴族、政治家。
爵位を継承する1975年以前はオールトラップ子爵(Viscount Althorp)の儀礼称号を使用した。愛称はジョニー(Johnnie)。ダイアナ元皇太子妃の父親にあたる。
== 経歴 ==
1924年1月24日に第7代スペンサー伯爵アルバート・エドワード・ジョン・スペンサーの長男として生まれる。母はその夫人(第3代アバコーン公爵ジェームス・ハミルトンの娘)。代父母は国王ジョージ5世の王妃メアリーと皇太子エドワード(後の国王エドワード8世)だった〔森(1986) p.621〕。
イートン校からサンドハースト王立陸軍士官学校に進学した。第二次世界大戦には竜騎兵第2連隊の大尉として従軍した〔モートン(1992) p.47〕。戦後は1950年までの補佐官を務めた〔。
その後、1954年まで国王ジョージ6世や女王エリザベス2世侍従として仕えた〔〔。女王と王配フィリップオーストラリア訪問にも同行した〔モートン(1992) p.47〕。1954年ロイヤル・ヴィクトリア勲章メンバー(MVO)を受勲。
1954年にファーモイ男爵家令嬢フランセス・バーク・ロッシュと最初の結婚をし、ノーフォーク・のパーク・ハウスで新婚生活を開始した〔モートン(1992) p.47〕。彼女との結婚を機に軍を退役し、に1年ほど入学して農場経営を学んだ〔ディヴィス(1992) p.39〕。フランセスとの間に5子を儲けるが、1969年に離婚した。
1970年にはノーフォーク治安判事に就任した〔。
1975年6月に父の死によりスペンサー伯爵位を継承し〔モートン(1992) p.68〕、貴族院議員に列する〔。またスペンサー伯爵家の本邸であるへ移住する〔モートン(1992) p.68〕。スペンサー家はノーサンプトンシャーに1万3000エーカーもの土地を所有する大地主であり、オルソープ邸は多くの美術品が飾られて博物館のようになっていた。立太子前の浩宮徳仁親王もここを訪れ、訪問帳にサインしている〔渡辺(2013) p.64〕。
1977年にはレイン・レッグと再婚した〔モートン(1992) p.72〕。
1978年11月に脳溢血で倒れ、病院に担ぎ込まれ、生死の境をさまよったが、なんとか蘇生した〔モートン(1992) p.85〕。
1981年7月29日に先妻との間の三女ダイアナチャールズ皇太子セントポール大聖堂で結婚した。スペンサー卿は、ダイアナが乗るから大聖堂に向かう馬車に同乗していたが、この際にダイアナに「私は本当にお前のことを誇りに思うよ」と述べたという。また馬車のパレードを気に入り、群衆に盛んに手を振った〔モートン(1992) p.145〕。倒れて以来健康状態がよくなかったスペンサー卿だが、大聖堂のバージンロードをダイアナとともに歩く役割を無事に果たした。彼はこの日のために何度もセントポール大聖堂に通って長い通路を歩く練習をして式に臨んだのだった。彼は後に「たとえ命を縮めてでも、ダイアナに付き添う覚悟だった。父親の義務だからな。例え死んだとしても辞める気はなかった。しかし本当のことを言うと、あの日、私がダイアナを支えていたのではなく、ダイアナが私を支えていたのだよ。優しい娘だ」と述懐している〔ディヴィス(1992) p.145-146〕。
1982年6月21日にダイアナが西ロンドンのでウィリアム王子を出産した。未来の国王にスペンサー伯爵家の血が流れることを喜んだスペンサー卿は所有するロールス・ロイスでただちに病院に駆けつけ、孫の顔を見た。その帰途、病院の外で待ち構えていた記者団に対して王子の顔立ちの美しさを嬉しそうに語った〔キャンベル(1992) p.237〕。
ダイアナが我がままを押し通して王室に仕える使用人を次々に辞職させているとの批判が高まった際、スペンサー卿はマスコミの取材に対して「ダイアナはいつも自分の思い通りにするのです。殿下も今頃それがお分かりになったと思います」と語った〔ディヴィス(1992) p.202〕。
1985年にはロンドンの邸宅を96年契約でロスチャイルド卿のに賃貸した。ロスチャイルド卿は2000万ポンドもの巨費を投じてその内装を18世紀の状態に復元している〔横山(1995) p.23〕。
1992年3月21日肺炎のためロンドンのヒューマナ・ウェリントン病院(Humana Wellington Hospital)に入院したが、3月29日心臓発作により死去した。息子のチャールズによれば肺炎は快方に向かっており、2、3日後に退院する予定だったが、以前倒れた時に弱っていた心臓が発作を起こして急死したという。この時ダイアナは皇太子や二人の王子とともにオーストリアでスキー旅行中だったが、姉からの電話で父の死を知らされ、泣き崩れたという。地元の教会で行われた葬儀においてダイアナは「亡くなられてとても寂しく思っています。私はお父様を永遠に愛し続けます。ダイアナ」というメッセージを添えた白百合スイートピーの花を霊前にささげた〔ディヴィス(1992) p.445-446〕。
爵位と家督は息子のチャールズが継承した〔ディヴィス(1992) p.446-447〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)」の詳細全文を読む




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